昭和43年07月28日 朝の御理解



 御理解 第51節
 「天地の間に住む人間は神の氏子。身の上に痛み病気あっては、家業できがたし。身の上安全を願い、家業出精、五穀成就、牛馬にいたるまで、氏子身の上のこと何なりとも、実意をもって願え。」

 こういう事迄願っちゃ気の毒いなんて事はない。どの様な事でも願え、実意を以って願えというてある。私共がお願いを致しますと言う事は、例えば一時間お願いばっかり致しておりましても、まあだ願い足りない。あれも願うとかなならない、この事も忘れとったとゆう事がある。まあだそれから、私共には分かってない願い不足の事がある。神様から、もうこんな事は願わんでよいのかと云われて「ああ神様それもでございます」というのが多いのである。
 この神様はそうして私共が、それは牛馬の事に至るまで、人間と関係のある事であれば、自分のところに買っている牛馬の事に至るまで実意を以って願え、ましてや身の上に痛み、病気あっては家業出来がた、し家業出精五穀成就、牛馬に至るまで、何事によらず実意をもって願えと。何故そのように私共が、こんな事迄は願われない、そんなに度々お願いばかりでは気の毒なと、言った様な事の心がある時には、まあだ金光様の御信心が分かっとらん時だと思う。
 もう二言も三言もお願いしたから、そげんなんでんお願い出来んと、言う様な間はまあだ金光様の御信心がようく分かっていない時。それは五十一節の初めの所「天地の間に住む人間は神の氏子」というところを分かっていない。ここが分からずにこんな難儀な事お願いしとるけん、もう次の事はお願い出来ん、まるきりよそのお父さんかお母さんにお願いするとのごと思うとる。それだからでけん。自分の親にお願いするのに何の気がねがいろうか、遠慮がいろうか何もかにも全ての事。
 そうですよもうどうでも願わないけません。明日朝の御祈念にお参りさせて頂きたいと思うから「明日も四時に起こして下さい」というてからお願いする。子供達が起きて勉強せんならんと、親に明日は勉強するから何時に起こしてくれんのと、そう言う事をお願いする事が「はあ、こげな事お願いして気の毒な」と思いはせんでしょうがですからね、神様に四時に起きたいと思うなら、四時に、五時に起きたいと思うなら、五時に起こして下さいと実意を以って願うとかな。
 全ての事人間の営みの上に、欠かすことの出来ない事が有ったら、何なりとも実意をもって願わなければいけません。それが願えない「気の毒なこんな事までは」という間はまだ金光様の御信心が分かっていないのだ。いわゆる五十一節の一番初めに冒頭にいわれております、「天地の間に住む人間は神の氏子」と云うてある。神様の氏子なのだ次に「氏子身の上に痛み病気あっては家業出来がたし」というてある。ここが大事痛み病気あっては家業ができがたい。
 いわゆる家業が出来ないから、健康のおかげを頂かして下さい、病気をなおして下さいと言う事になってくるのです。唯何もしてないブラブラして遊ぶ為に、健康にならして下さいではない事が分かりますね。何をかなさなければならない、それぞれの持場立場に於て、それぞれの御用がある。その事がなされる事の為に、身上安全を願わなければならない。いわゆる健康をもてあます。
 健康である仕事がない、ブラブラしておるそうゆう事の為には、やはり健康身上安全を願うと言う事はおかしい事になってくるですね。家業が出来る事の為にお互い健康、何なりとも、いわば仕事をさせてもらうその仕事を、出来る事の為に健康を願わなければならない。家業出精、家業が繁盛すると同時に、私共は段々出世していかなければならない。いよいよ精を出していかなけれならない。充分な働きがいよいよできる様になっていかなければいけない。
 その為に身上安全を願わなければならない、と同時に五穀豊穣、牛馬に至る迄とおっしゃる「どうぞ、お米が沢山出来ます様に、麦が沢山出来ます様に、お野菜が立派に出来ます様に」と例えてゆうなら農作物だけの事ではありません。それぞれの仕事の上に、その事が立派に実のっていく、成就していく事を願わなければならん、それもです、商売人は、商売大繁盛を願わなならん。そんなに欲の皮のつっ張った様なお願いばかりはでけん、そんな事はない。
 しかも日勝り、月勝り、年勝り、代勝りの、今年よりも来年と言う様に、段々親の代より子供の代に繁盛することを願わなならん。この神様は願わなければ御無礼になる、親ですから「天地の間に住む人間は皆、神の氏子」と仰るそう言う様に、人間氏子が真実健康で商売が繁盛して、農作物が良くできて、人間との関係のある牛馬に至るまで、人間が幸福になっていく事の為ならば牛馬に至るまで実意を以って願えと。
 何故かというとですね、今天地の間に住む人間は神の氏子であると同時にです、子供が真実幸せになっていくと言う事が、親の願い神の願いなのだからですよ、分限者の徳を受けていくと言う事が、健康の徳を受けていくと言う事が、家庭円満のおかげを受けていくと言う事が、そういう人間の幸せのありとあらゆる幸せになっていく為の条件というものが、ひとつ欠けても幸せではない。その全てがたろうていく様な、おかげを頂いてくれるとゆう事が、神が氏子に対するところの願いだからなんですよ。
 「神様の願いなのだから」願いと言う事についての意味が皆さん分かったでしょう。何故願わねければならぬのか「天地の間に住む人間は神の氏子」であると言う事の自覚、いわゆる神様と私共の関係がこれは、よそのおじさんでもなければよそのお父さんでもない。自分の親である。自分の母であり父である。まずここのとこにそこからの起点にそこから始まる。同時に身上安全を願うと言う事でも、身上安全のおかげを頂いとらないと家業が出来難しと言う所そこんところお道では御用と言うでしょう。
 御用が出来難い。それは自分の商売、自分の仕事の様に思うとるけれども、よくよく考えてみると、神様の御用としてそれが成される。その御用がなされる事の為に健康を下さいと言う事になるのです。その御用が真実なされる事の為に、商売が繁盛させて下さいと言う事になるのです。その御用が出来る事の為に、どうぞ勉強が出来ます様にというのである。どんなに頭がようても勉強が出来ても、御用と反対に神様がお喜びなさらん様な事に使うなら、何の神様がおかげを下さろう。
 自分の少しばかりのよい頭を、そうい事に使わずに反対に世の中の人が困る事に使う人があります。健康のおかげを頂いておるその健康を暴力の為に、腕力を使うとゆう人達がおります。そうゆう事の為に願ってはいけない事が分かる。神様から喜んで頂く御用の為に、奉仕する事の為に、健康が願われなければならない。商売繁盛が願われなければならない。五穀豊穰が願わなければならないと言う事になりますね。
 成程全ての事が実意をもって願わなければならない、どんな事でも願わなければ、願ってよいのではなく願わなければ。又願われなければ御無礼になる、神様に「こんな事までお願いできまっせんけども」と「そげな事あるもんかお願いせじゃこて」と私は申します。それは私どもが神の氏子としての自覚が出来たら、願う事が当前。そこで皆さん全ての事どの様な事でも実意を以って願われねばならないと言う事が分かりましたですね。そこで今度はその願うた事がおかげになってこないけんです。
 病人が健康になりますようにと願って、いつまでも病気しとってはいきますまい、商売繁盛を願っていつまでも商売不振ではいきますまい、お金の御繰り合わせを願って、いつまでも貧乏じゃいきますまい。だからそこはお願いをしたところから、始められなければならない事がある。お願いをするお取り次ぎを頂く、そこから神様の働きが始まると思わないかん。それをです願っておきながら、迂闊にしておってはならないと言う事。お願いをして、神様のお働きを頂いておるのであるから、こちらもこちらでです。
 願った事に対するところの務めというか、働きというものをそこからなされなければいけないと言う事。例えばお百姓さんがお野菜を作られます。「どうぞこのお野菜が見事に出来ます様に」とお願いをする。それは親だから願うたってよか願うた。種をまいたおかげで芽をきった、ところが同時にです雑草がはえてきた。お願いしとるけん草やら取らんでよかと言う事はないと言う事なんですよ。
 お願いをしたそこから神様の働きが始まると同時に私共の働きも、そこから実意を以っての働きが、始められなければならないと言う事です。草がはえておるなら、草を取らないけん。これはどうも肥料が足りないごとあると思うたら、肥料を施さなければならないのです。そこのにきがです、例えば親と子の願い合い頼み合いという働きが生まれて来る。神様にお願いしておるから、もう草をとらんでもいい、肥料をやらんでもいいと言った様な事はないと言う事ね。
 明日は試験ですから神様に試験の事ばお願いしたからそれでよいと言う事はでけまい。お願いしたから、そこから働きが始まるのだからね、そこから即勉強が始められなければいけないと言う事。もう全てについて同じ事。健康のおかげを下さい、どうぞお願いします筋道たてた「御用の事の為に家業が出来難い、その為に健康を下さい」と願う願いに筋道は立った。
 ところが筋道がたったってもう神様に健康の事はお願いしとるから、筋道がたっとるから自分な健康になったら神様に喜んで頂く様な事に、精を出させて頂く身体じゃいかんのです。健康の事を願ったらもうその場から、そこから健康に対するところの体に対するところの節制がなされていかねばならん。お酒を飲み過ぎたらいけんと言われたら、本当にお酒を慎まないけん、願いの筋道は健康になったら、神様に喜んで頂ける様な働きをするから、どげん食べたっちゃよか。
 どげん飲んだっちゃよかと言う事じゃいけないでしょうが。そこんところが実意を以って願うとゆう事は、そこんところを願うていかにゃいけん。どうぞ商売繁盛のおかげを頂かして下さい。大繁盛のおかげを頂いて、沢山のお金がもうかりましたら、喜んで頂くような御用に使わせて頂きますと願う、成程筋道は立った。ところがその人がです、お金の浪費をするならば、それは丁度お百姓さんが畑を作って、草もとらんで雑草がボウボウとはえておる様なものです。
 お金さえ握ればもうすぐ湯水の如く使う。何もならぬ事に。そう言う様な人の上に、金銭のお繰り合わせが、頂ける筈は絶対にないと思います。神様の下さるおかげというものは頂けんと思います。今日はお道の信心をさせて頂く者が全ての事。ここに出ております、五穀豊穣身上安全、牛馬の事というだけではなくて、全ての事の上にです、私共が人間が幸せになっていく事の為の、それが条件に必要であるものであるならばです、それは牛馬の事に至るまで願わして、もらわねばおられんのであり。
 又願わなければならんのである。願わなければかえって、神様に対して御無礼だ。神様自身がどうぞ、そういうおかげを受けてくれよと、私共に願いをかけておって下さるのであるから、そこに神様の願いと私共の願いがひとつになるのだ。そんなら神の願いと、私共の願いがひとつになったからというてです、筋道がたたなければならない。家業出来がたしという、家業が出来る事の為に、本当に神様のお役に立たせて頂くために全てのおかげが成就してゆくという筋道が立たねばならないと言う事。
 そんならその筋道が立っただげではいけない。神様の願いと私共の願いがひとつになって、そこからすでに神様の働きが始まるのであるから、私共のそれに対する働きも又、そこから始められなければならないと言う事。お野菜が出来た雑草も出た。もう「神様にお願いしとるけんよか」でなくて、その雑草を取り除かせて頂く事にです、私共が実意をもって一生懸命に草を取ったり、水をやったり肥料を施したりは、しなければならないと言う事を申しますねえ。
 そこのところがですね、私は実意丁寧になされていって、初めて神の願いであるところのおかげ「どうぞ氏子信心しておかげを受けてくれよ」と言う所のおかげが頂けると思うのでございます。そういうふうに頂いてこの御理解が、初めて素晴らしい御理解だなと言う事が分ってくるんです。まず天地の間に住む人間は神の氏子の自覚に立っての願い。隣の人に頼むんじゃない、あかの他人に頼むんじゃないね。よそのお父さんに無理いうのと違うのだ。神の氏子としての頼みであり願いである。
 ここのところに私はお道の信心である意味合いでの、独壇場があると思うのです。これは願いについての御理解だと思うのです。今までは只どんな事を願ってもええ代りに、実意をもって願え。実意をもって願えという御理解は随分頂いて参りましたけども、今日のようにこの神の氏子としての、自覚に立つと同時に、願える事に筋道を立てると言う事。同時に願ったそこから私共も、神の願いにこたえるところの働きがそこから、なされていかなければならないと言った様な事を、今日は頂きましたですね。
   どうぞ。